情報発信する際に気をつけたい表現<後編>

情報発信する際に気をつけたい表現<後編>

ここでは、いわゆる「ポリコレに反する」とされる表現について紹介していきます。

昔は一般的に使用されていた表現が、現代では避けるべき表現となっていることもあるので、ぜひ最後までご覧ください。

前編で少し触れていますが、ポリコレには明確な定義や範囲はありません。

そのため、あくまでも「気をつけたい表現」としてお読みいただければ幸いです。

宗教や信条に関する表現

日本社会では宗教に対する意識が諸外国に比べ比較的低く、日常生活で宗教や信条に関する表現を使う機会も少ないかもしれません。

しかし、グローバル化が進む中で、さまざまな宗教的背景を持つ人々との交流はますます増えていくでしょう。そのため、他者の信仰を尊重し、不快感を与えたり誤解を招いたりするような表現を避けることは、国際社会での円滑なコミュニケーションを図る上でも大変重要です。

宗教や信条に関して、異なる背景を持つ受け手に対して敬意を持って接することが、コミュニケーションの基本となります。

<特定の宗教や信条を劣っているとみなす表現>
世界には多種多様な宗教や信条が存在し、それぞれに独自の教えや慣習があります。特定の宗教や信条を劣っているとみなすような表現を用いることは、異なる宗教的見解を持つ人々間での誤解を招き、対立を助長してしまう可能性も。 

宗教や信条は個人が深く信じ、価値を見出しているものであり、その正当性を外部から否定する権利は当然誰にもありません。すべての宗教や信条を平等に尊重し、異なる信仰を持つ人々間の理解を促進するような表現を心がけましょう。

<宗教的信念を軽蔑する表現>
宗教的信念や実践を「迷信」と呼ぶなど、非科学的で根拠のないものとして単純化し、その価値を否定するような表現は、差別と捉えられることがあります。 

宗教や信条は、特定の人々にとって重要な意味を持ち、文化的アイデンティティや精神的な慰めとなっていることも多いです。そのため、宗教的信念を単に「迷信」と片付けることは、その人々の信念を尊重していないことになります。 

同様に、信者に対して一律に「盲信者」などとレッテルを貼ることなども、信仰の背景や個人の信念への理解を放棄した配慮の欠ける言動と言えるでしょう。 宗教や信条に関わる表現を選ぶ際には、相互の尊重と理解の精神を前提とし、すべての宗教的信念と実践を尊重する姿勢を示すことが大切です。

<宗教的行事や祝日を不適切に利用する表現>
宗教的行事や祝日は、その宗教の教えや伝統を象徴するものであり、信仰者にとっては非常に重要な意味を持ちます。これらを軽視し、軽蔑的に扱うことは、その宗教や信仰者への不敬となり得ます。

例えば、宗教的行事や祝日の商業化は、その本来の意味や価値を歪めることになりかねません。特に、商業的目的で宗教的シンボルや行事を利用することは、信仰心を持つ人々の間で不快感や批判を引き起こす可能性があります。

宗教的行事や祝日を扱う際には、その背景や意義を尊重し、信仰心を持つ人々の感情を考慮するようにしましょう。

他者の宗教的価値観を完全に理解することは難しいですが、それぞれの宗教や信条に対して、リスペクトを持っているというスタンスを示すことが必要不可欠です。趣味嗜好や性別などと同じく、人それぞれの「個性」として慎重に扱う意識を持つことで、不用意なミスコミニケーションを防げるでしょう。

性別や性的指向に関する表現

一人ひとりが持つ性別や性的指向は、多様で複雑なものです。

しかし、職業の呼称など、社会には長い間、性別に関する固定観念やステレオタイプが根強く存在しています。そのため、差別的意識を持たずに、何気なく使っている表現もあるかもしれません。

古いステレオタイプを無意識のうちに助長するような表現は、可能な限り避け、徐々に他の表現に言い換えていくのが良いでしょう。

<ステレオタイプに基づく表現>
「男らしさ」「女らしさ」を定義する古いステレオタイプな表現は、性別に基づく期待や規範を反映しています。例えば、「男の子は泣かない」や「女の子はおとなしい」といった表現などです。  最近だと、「女子力が高い」「家庭的な女性」などの言葉も、一般化された女性像を押し付けていると言えるでしょう。 

これらの表現は、人々が自分自身を自由に表現することを制限し、性別による役割分担を固定化する意図が含まれている場合があります。時として、これらのステレオタイプに当てはまらない人々に対して、疎外感や劣等感を覚えさせてしまうこともあるかもしれません。 

人間の性質は、性別によって決定されるものではないことを理解し、個人にフォーカスした表現を用いるのが望ましいでしょう。

<性的指向に関する不適切な表現>
性的指向(Sexual Orientation)とは、その人の恋愛感情や性的関心が、どの性別を対象にしているかということです。 

性的指向は個人の深い部分に根ざしたものであり、個人が自由に選べるものではないというのが多くの専門家や権利擁護団体の見解です。この観点から、性的指向に関して「選択」「生まれた時の」という言葉を使用することは、性的指向に対する誤解を広め、LGBTQ+ コミュニティへの誤ったスティグマ(固定観念・偏見)を助長する可能性があります。 

また、性的指向に対して「正常」「普通」「本来」などの言葉を使うことは、特定の性的指向を他よりも優れている、または望ましいものと暗示し、その他の性的指向を劣ったものとして扱うこととなります。このような区別も偏見に基づいており、受け手に不快感を与えかねません。

総じて、性的指向や性自認に関して敬意を持って表現する際には、適切な言葉遣いが求められます。

主な用語として以下のようなものがあります。

レズビアン同性を愛する女性を指します。
ゲイ同性を愛する男性を指します。
バイセクシュアル両性を愛することができる人を指します。
トランスジェンダー出生時に割り当てられた性別とは異なる性自認を
持つ人々を指します。
クィア伝統的な性別の枠組みや性的指向のカテゴリに当てはまらない人々を指す包括的な用語です。
クエスチョニング自分の性自認や性的指向が定まっていない状態にある人や、
考えが流動的である人々を指します。
パンセクシュアル性別に関係なく、人々に対して性的、感情的な魅力を感じることができる人を指します。
アセクシュアル他者に対して性的魅力をほとんどまたは
全く感じない人を指します。
インターセックス生物学的性別の特徴が一般的な「男性」または「女性」のカテゴリーに完全には当てはまらない人々を指します。
ノンバイナリ自分自身を男性でも女性でもない、またはその両方と同定する人々を指します。
性別が二元的な枠組みに収まらないことを示します。

これらの用語は、性的指向や性自認に関する多様性を尊重し、個人のアイデンティティを肯定的に認識するために使用されます。

ちなみに、幅広いセクシュアリティ(性のあり方)を総称する言葉としてLGBTQ+という表現がありますが、これは「Lesbian(レズビアン)」、「Gay(ゲイ)」、「Bisexual(バイセクシュアル)」、「Transgender(トランスジェンダー)」、「Queer(クィア)/Questioning(クエスチョニング)」の頭文字を取って名付けられたものです。

LGBTQ+ の「+」は、セクシュアルマイノリティが広がるにつれて分類できない性別を含んでいます。

そのため、上記の表で紹介した性的指向や性自認に関する用語および分類はあくまでも一部であり、今後新たな表現が増えることもあるでしょう。

言葉遣いにおいては、その人が自己同定(自己認識)する用語を尊重して使うことが重要です。

例えば、主にゲイやトランスジェンダーなどの人々に対して使用される「オカマ」という言葉がありますが、この表現は時として差別的な意味を持つことがあります。一方で、当該者の方々が自身をオカマと称することも少なくありません。

過剰に配慮しすぎることで、「区別」がその域を超えて「差別」となることもあるので、あくまでも個人の感情やプライバシーに配慮することが大切です。状況や関係性などに応じて柔軟に言葉を選ぶことで、相互理解がより深まるでしょう。

その他注意すべき表現

ここまで紹介してきた表現以外にも、言及する際には注意すべき表現があります。

配慮が必要な話題として「5秒以内に変えられるか否か(5-seconds-rule)」を一つの基準とするとわかりやすいでしょう。

これは、臨床心理学者ドクター・デスタがTikTokにて提唱したルールで、「人の外見については『5秒以内に変えられることについてのみ』、コメントしていいことにする」というものです。

例として、「歯にほうれん草がついている」「髪の毛に虫がついている」などは指摘しても良いが、「太りすぎている」など、5秒で変えられないことを他人が指摘するのは良くないと動画内で触れられています。

動画内で言及されているのは外見のことですが、それ以外でも、出自や教育環境など、5秒以内に変えられないことについては、自分の意見を押し付けないことが他者への配慮となるでしょう。

それを踏まえた上で、注意すべき表現としては以下のようなものがあります。

<社会経済的地位に関する表現>
基本的に、個人や集団をその社会経済的地位に基づいて分類、評価するような表現は使うべきではないでしょう。

例えば、「低所得者」や「貧困層」といったラベルは、その人々の経済的状況を単純化し、当該者の能力や価値をその経済状況によって判断してしまっています。同様に、社会経済的地位を理由に特定のグループを劣ったものとみなすような表現や、富や成功を過度に賞賛する表現も避けるべきです。 

これらの表現は、社会的な価値が経済的成功によってのみ定義されるという誤ったメッセージを発信し、経済的な困難に直面している人々を不当に排除することにつながります。

<教育背景に関する表現>
個人の知識、経験、能力は、公式の教育機関での学習だけでなく、生涯を通じたさまざまな経験から形成されます。 教育背景を基にした表現は、意図せずとも不平等を助長したり、特定のグループに対する偏見を生んだりすることがあります。そのため、教育水準や学歴を人の価値や能力の唯一の尺度として用いるような表現は避けるべきでしょう。

例えば、「大卒でないと成功できない」といった表現は、学歴が人生の成功を決定づけるという誤った認識で、教育機会に恵まれなかった人々を不当に評価することにつながります。 

また、人々を「高学歴」「低学歴」といったカテゴリーで分けることは、教育背景の多様性を無視し、特定の教育経路を他よりも優れているかのように扱うことになりかねません。

<地理的・文化的背景に関する表現>
文化的な差異は尊重されるべきですが、それを基に人々をカテゴリー分けし、特定の行動や特性を一方的に期待する表現は、文化的ステレオタイプを固定化し、多様性の理解を妨げます。

例えば、「発展途上国は後進的だ」や「西洋文化は進歩している」といった地域や国を一般化する表現は避けるべきでしょう。これらの表現は、特定の地域や文化に対する不平等な視点を反映しています。

<言語に関する表現>
言語は文化的アイデンティティと深く結びついており、個人や集団の自己表現の重要な手段の一つです。そのため、特定の言語や方言を劣ったものとみなす表現は不適切と言えるでしょう。

例えば、「◯◯弁を話すなんて教養がない証拠だ」といった、特定の言語や方言の使用を否定的に扱う表現は、その言語や方言を話す人々に対する偏見や差別を助長します。 

また、「英語が話せないから頭が悪い」のような、言語能力をもとに個人の知性や価値を判断する表現も適切ではありません。これらの言葉は、言語能力と知性を不当に結びつけ、多言語話者や特定の言語を学習中の人々を不当に評価することになります。

<家族構成や生活スタイルに関する表現>
現代社会では、家族の形態や個人の生活スタイルは多様であり、従来のモデルにとらわれない多彩な選択が存在します。そのため、「本当の家族は…」や「健全な生活とは…」といった表現は、特定の家族構成や生活スタイルを他よりも優れているかのように暗示し、多様な家族形態や生活選択を持つ人々を排除することにつながります。

単親家庭、同性カップルの家庭、非婚共同生活、独身生活など、さまざまな家族構成や生活スタイルに対して偏見を持たせる表現は避ける必要があるでしょう。 

これらの選択を「非伝統的」や「異常」とするような言葉遣いは、多様性を認めず、特定のライフスタイルを劣ったものとみなすことになりかねません。

<体型や外見に関する表現>
体型や外見に関する不適切な表現は、多くの人が使用したり逆に使用されたりしたことがある、身近な「ポリコレに反した表現」ではないでしょうか。 

「痩せている方が美しい」や「太っている人は怠けている」といった表現は、特定の体型を理想化し、個人の自尊心を傷つける可能性があります。「美人は仕事ができない」「背が低いと卑屈になる」のような、外見に基づくステレオタイプを強化する表現も避ける必要があります。

基本的には、人の体型や外見に関しては、プラスな意見であっても触れないのがベターです。なぜなら、発信者側が褒め言葉だと思っていても、受け手からすると否定的な意見と受け取られてしまう可能性があるからです。 

例えば、日本では「小顔」が美の基準の一つとされ、褒め言葉として使用されることが多いですが、欧米では侮辱になる可能性があります。欧米においては、「小顔=脳みそが小さい=頭が悪い」という価値観があるため、顔が小さいというのは貶し言葉になってしまうんです。

これは極端な例かもしれませんが、本人が気にしている点やコンプレックスに言及された場合、内容に関わらずネガティブな印象を与えてしまう恐れがあります。相手との関係性にもよりますが、不用意に人の体型や外見に関して触れるのは、リスクが高いということは留意しておくのが良いでしょう。

総じて、自分の力で変えるのが困難なことは、他人が不必要に言及しないのが望ましいでしょう。

まとめ|誰かが傷つくことであろうことは言わない

ここまで、気をつけるべき表現について色々とお読みいただき、「あれもこれも配慮しなきゃいけなくて窮屈!」「これじゃ表現の自由が奪われてしまう!」と考える方もいるかもしれません。

実際、ポリコレに対して「窮屈」「厄介」というイメージを持っている方も少ないでしょう。しかし、難しく考える必要はありません、とてもシンプルです。

「誰かが傷つくことであろうことは言わない、これだけです。

幼い頃に誰しも大人から教わったことでしょう。そもそもポリコレというのは、「特定の人が傷つく表現を改めよう」という動きです。つまり、ポリコレを意識することは、誰かを傷つけないように配慮することと言えます。

こう考えると実践しやすくなりませんか。何かを発信する時には、一歩立ち止まって、誰かを傷つけてしまうことを書いていないか振り返ってみてください。

これには想像力が必要です。

想像力は、自分にとっての当たり前は誰かにとっては当たり前でないかもしれないという前提で物事を考えることで鍛えられます。

  • 両親がいること
  • 教育を受けられていること
  • 髪の色が黒であること
  • 性自認(自分の性をどのように認識しているか)と生まれたときに割り当てられた性別が一致していること

など、挙げればキリがありませんが、実は身の回りのあらゆることは当たり前のようで当たり前ではありません。

一人ひとりの個性、環境、人生はオンリーワンで特別なものです。

そういった違いや多様性に対してリスペクトの気持ちを持つことで、徐々にフラットな考え方が身についていきます。

大げさかもしれませんが、想像力豊かで優しい考えを持つ人が増えることで、世界を今よりも少しずつ平和にすることができるでしょう。世界規模で考えるとイメージしにくいという人は、まずは自分の大切な人を傷つけないためにも、日頃から自分の発する言葉に気をつけることから始めてみましょう

この記事を書いたライター

執筆者

Haruka Matsunaga

おしゃべりが止まらない5か国語話者ライター。二次元にも三次元にも推しがとにかく多すぎるオタク。素敵なものや自分の好きなものをとにかくたくさんの人に広めたいという気持ちが執筆のモチベーションです。ペンは剣より強し、言葉の力を信じて...

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