義務教育
春の柔らかな日差しが教室に差し込む。私は新学期の準備で忙しかった。
黒板に“ようこそ3年1組へ”と丁寧に書きながら振り返ると、がらんとした教室に懐かしさを覚える。
私は無事、母校であるこの小学校で担任を持てるようになった。
教師になって5年目。
かつて生徒として座っていた教室で教壇に立つ今、時の流れを強く感じずにはいられない。
チャイムが鳴り、生徒たちが次々と教室に入ってくる。
その姿を見守りながら、深呼吸をする。
新しい1年の始まり。希望と不安が入り混じる季節だ。
「おはようございます。3年1組の担任を務めます、佐藤未来です」
簡潔な自己紹介を終えると、生徒たちの表情を確認する。
みな緊張した面持ちで、ほとんど無言だった。
「では、自己紹介をお願いします。1人30秒以内でお願いしますね」
号令とともに、生徒たちが順番に立ち上がる。
その様子を見ながら、私は15年前の自分を思い出していた。
「田中です。よろしくお願いします」
「鈴木です。よろしくお願いします」
ほとんどの生徒が、名前と挨拶だけを述べて座る。
中には無言で頭を下げるだけの生徒もいた。
言葉が有限になってから、大人になるにつれて言葉を節約する人が増えた。
環境問題の視点で見ると、一定の効果があるのかもしれない。
しかし、それと同時に、言葉を喋らない子どもが急激に増えていた。
義務教育の間は、コトバ代はかからないにも関わらず、コミュニケーションがうまく取れずに、悩んでいる子は多い。
その分、オンラインで世界中に友達がいる!と豪語する子はいるが、対面での会話になると途端に黙ってしまったりする。
言語コミニュケーションの退化が、出生率の低下に影響しているのではないかとさえ、言われるようになっている。
最後の生徒が座ると、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「みなさん、ありがとうございます。これから、みんなのことをたくさん知っていきたいと思っています。名前以外のことも…ね」
ニコリと笑ってそういうと、生徒たちの表情が少し和らいだので、私は安堵した。
授業が始まり、国語の教科書を開く。
今日の題材は、言葉が有限になる前の小説だ。
豊かな表現で綴られた文章を読み上げると、1人の生徒が手を挙げた。
「先生、こんなにたくさんの言葉、大人になってから使わないですよね。勉強する意味あるんですか?」
言葉が有限になってから、教師たちはこの問題と向き合い続けてきた。
もちろん、私自身もこの問題と向き合い続けた結果、国語教師になる道を選んだ。
私がこれからの“未来”を作るこの子達に、教えなければならないことは…ある。
教室中の視線が、集まったのを感じる。
「そうですね。あなたたちも、いつか義務教育を終えて、使える言葉が有限になる時がきます。でも、有限なものを使わないのと、有限だからこそ大切に使おうとすることは、大きく意味が違うと、先生は思っています」
私の言葉に、生徒たちは真剣な表情で耳を傾けている。
「たくさんの言葉を知るからこそ、温かい言葉・優しい言葉・愛のある言葉を自分自身で選ぶことができるんです」
生徒一人ひとりの目を、ゆっくりと見ていく。
言葉の受け取り方も人それぞれだ。
すると、また、手が挙がる。
「せんせー!言葉を大切に使うってどーゆーことですか?」
周りの生徒たちも、うんうんと首を縦に振っている。
「いい質問ですね。言葉を大切にすることとは、人それぞれ違っていいものです。
自分にとって言葉を大切に使うというのは、どういうことか。それぞれ考えてみましょう。今日の宿題です。来週みんなで発表しましょう!」
貧困差
放課後、職員室で同僚の内田先生からメッセージが届く。
「ねえ、見た? 政府が『コトバの再分配システム』を検討しているって」
山田先生の方を見ると、更に先まで読め!とジェスチャーされる。
メッセージと一緒に届いていたURLを開くと、そこには、社会的弱者に対して追加のコトバ使用枠を与える制度の構想が記されていた。
(へえ、ついにここまで来たか)
私は複雑な思いで画面を見つめた。
確かに、コトバの使用に格差が生まれているのは事実だ。
裕福な家庭の子どもたちは、より多くの言葉を使えるため、表現力や学力の面で優位に立っている。
「でも、これで本当に解決するのかな」
内田先生からさらにメッセージが届く。私も同感だ。
コトバの再分配は一時的な解決策に過ぎない。
根本的な問題は、言葉の価値をいかに理解し、活用するかということだ。
SNSではコトバの再分配に関する議論で溢れていた。
賛成派は、これによってコミュニケーション格差が解消されると主張する。
反対派は、お金を持っている人が損をし、貧困層が更に働く意欲を失うのでは、という意見もあった。
未来は深いため息をつきながら、画面をスクロールする。
どちらの意見にも一理ある。
(私は教師として、何ができるんだろう…)
あまりに大きな問題に、解決策を見出すことはできないままでいた。
無駄のない世界
答えのないまま、翌日の授業で昭和の言葉について教えた。
「昭和の時代は言葉が無限でした。いくら言葉を使っても、お金を払う必要はなかったんですよ」
そう伝えると、生徒たちは想像がつかないといった顔でこちらを見ている。
言葉が有限になってしまった現代では、なるべく簡潔に相手に伝わる言葉が好まれる。
そんな現代から見る昭和の世界は、不思議で溢れかえっている。
『家族団欒』『歓迎会』『オフ会』何が生まれるわけでもないが、マナーやコミニュケーションの一貫として頻繁に行われていたというそれらは、想像の範疇に及ばない。
私も、思春期を迎えた頃、友人とする“何が生まれるわけではないが楽しい会話”に夢中になって、両親と一言も話さない時期があった。
大人になればなるほどに、その何も生まれない会話がどれだけ貴重で、心を豊かにするものだったのかを、知ることになるのだ。
しかし、制限がなければ、そのありがたみに気づくことはできないものなんだろう。
言葉が無限だったころには、ゴシップや人の陰口に花を咲かせる人たちがいたらしい。
なんて贅沢な話だろう。
「私たちが大人になる頃には、昭和みたいに言葉が自由に使えるようになったらいいなー」
と、1人の生徒が言った。
言葉を有限にしたことによる社会問題は、貧困差だけではない。
言語が単純化・画一化され、方言などの文化の多様性や、伝統的な表現が失われつつある。
感情表現が貧困化し、対人関係のトラブルや精神的問題が増加。
個人が孤立していくことで起きうる問題は、これから世界的な課題になってくるだろう。
「言葉を無限に使えたら、世の中はもっと良くなると思いますか?」
生徒たちに問いかけると、ほとんどの生徒が賛成だと答えた。
しかしその中に1人だけ、不思議そうな顔をしている生徒がいた。
「山内くん、あなたは言葉を自由に使えるようになったら、世の中はどうなると思う?」
そう問いかけると、山内くんは首をかしげながらこう言った。
「言葉が自由になったら、選ぶ言葉が変わるってこと?僕は無限でも有限でも、使う言葉はあんまり変わらないかなって…うーん」
山内くんは自分でも頭の中を整理するように、ずっと首をぐるぐる回しながら考えていた。
あの時、私自身が両親から言われた「伝えられる言葉が有限だからこそ、ちゃんと伝えなければならない」という言葉。
そのコトバの意味を、彼は理解しているのだろうか?
「山内くん、それって…」
言いかけて、私はそれ以上言葉にするのをやめた。
『言葉を大切に使うこと』についての発表は来週だ。
彼の出す答えが、聞きたい。
そこでチャイムの音がなった。
昭和から1度も変わっていないらしいこのチャイムが、心に響く気がしてならなかった。
ー第11話 終ー
この記事を書いたライター
Nishino
アパレル業界一筋15年。2人の子どもを育てる副業ライター。現在はシナリオライティングをメインに活動中です。おもしろいことが好き!おもしろい人が好き!そんな自分の「好き」を伝えられるライターになりたいです。いえ、なります。
夢は開業...